グリッパーとは

クリッパーという言葉自体は、ボルティモアクリッパーのところで書いたように、「クリップする~切りつめる~時を短くする~早い」という言葉から由来しています。

クリッパーの登場と帆船時代の終焉

異論もありますが、最初のクリッパーとされる船は、レインボー号と言われています。1840年頃(1845年という説もある。)にアメリカで建造されています。

(最初のクリッパーをアン・マッキム号とする人もいます。アン・マッキムもまた、アメリカで1833年頃建造された船です。クリッパーは、だいたい排水量1000トン前後のようですが、アン・マッキムは500トン程度ですから、大きさからして異なり、クリッパーとしての帆装が完成されていないといわれるようです。他、スコティッシュメイドという船をあげる説もあります。)

ゴールドラッシュ

この船の最初の活躍の場は、ゴールドラッシュです。
1848年に、カリフォルニアで金鉱が発見され、ゴールドラッシュとなりますが、ラッシュといわれている通り、金の発見を望む者は、少しでも早くカリフォルニアに到着することを考えます。
そこで、クリッパーは、その快速性を生かし、めざましい活躍をします。

茶の輸送

そんな中、クリッパーを歴史の桧舞台に押し上げるきっかけになったのは、1849年のイギリスの航海条例(1660年特にオランダの仲介貿易の覇権を打倒するために制定した条例、イギリスは外国貿易から外国船を排除していた。つまりイギリスの船を通した商品でないと自国での販売を禁止していた。)の廃止です。

お茶は、品質を落とさないよう少しでも早くイギリスへ運ぶ必要のあったので、アメリカ商人たちは、そこに目をつけ、中国と英国間の航路に、クリッパーを投入したのです。その結果、茶の輸送に関しアメリカはイギリスに対し圧倒的に有利な立場に立ち、また、商人は莫大な利益を手にしたのでした。

これに触発され、イギリスもクリッパーを造るようになり、クリッパーという船種が広まる訳です。

なお、アメリカは最初、茶の輸送に関し圧倒的に有利でした。しかし、イギリスがクリッパーを造るようになってからは熾烈な競争が展開され、アメリカは1861年より南北戦争に突入したことから、競争から脱落します。

終焉

この頃になると、船の世界にも、鉄船が登場してみたり、蒸気船が登場したりと、いろいろな技術革新の影響が反映されてきます。そして帆船の時代が終焉を迎え始めます。

鉄船は1787年に早くもウオーリアという船が造られていますが、その後20年は鉄船が作られていませんでした。軍艦としては、東1839年にインド会社が、2隻建造したのが最初だそうです。

そして1850年前後には、鉄部品が頻繁に使用されるようになります。ただし鉄船は茶の品質に影響すると当時はいわれていたそうで、茶を運送する船としては、歓迎されなかったようです。

蒸気船ですが、その登場自体は早く、1783年。そして1807年には客船が登場。1836年にはスクリュー型の軍艦が登場。戦列艦としては1852年進水のアガメムノンという軍艦が登場しています。(なおペリーの黒船は1850年製の外輪船です。外輪はスクリューと将来を争います。)
当時の蒸気船は数ノットしか速力を出せないのに比べ、クリッパーの記録的な最高速度としては、20ノット程度と言われています。

製造された国による区別

ヤンキークリッパー

一般的には、イギリスのものに比べ、耐用年数が短い。それは「よく乾燥した材木を使わないから」とも「柔らかい材木を使っていたから」ともいわれています。なお、フライングクラウドという船が傑作中の傑作といわれています。

アバディーンクリッパー

スコットランドの北部で造られたクリッパーです。概してイギリスのクリッパーはオーク材をふんだんに使用し、鉄の骨組みに木の板を張る木鉄交造船も多く、非常に丈夫。

航路(荷)による区別

オピウム・クリッパー

インドで取れた阿片を中国へ運んだクリッパーを言います。

ホーンクリッパー(カリフォルニアクリッパー)

アメリカ東海岸側から、ケープホーンを回って、カリフォルニアまでの航路に使用されたクリッパーを言います。ゴールドラッシュ時に活躍したようです。だいたい100日くらいで西海岸まで行けたようです。これは陸路を通る約半分の日数だそうです。ちなみに有名なフライングクラウド号の航破記録は、ニューヨーク~サンフランシスコを89日とされています。

オーストラリアクリッパー(ウールクリッパー)

オーストラリア航路に使用されたクリッパー。オーストラリアにもゴールドラッシュは、ありました。そのためヨーロッパからは、金目当ての人を運び、その帰路は羊毛を運んでいたとされます。

ティークリッパー

中国からイギリスまでの茶を運ぶ航路に使用されたクリッパー。一番有名な航路です。

この航路で多くのクリッパーレースがひろげられました。(サーモピレーとカティーサークのレース。テーピン号・アリエール号・セリカ号で競われたレースが非常に有名なようです。)

有名な船

サーモピレー

スコットランドアバディーン建造、1868年進水のティークリッパー。処女航海から各航路の記録を更新していった当時最速の船であり、カティーサークのライバルとしても知られています。その大一番であった1872年のカティーサークとのレースでは、勝利するも高性能の評価は相手に奪われてしまいます。スエズ運河開通、汽船の登場に押され、一線から退き、ポルトガル政府に買い取られ、1907年、ポルトガル海軍の実弾訓練の実践標的となり、海底に沈みました。クリッパー全盛期を代表する一隻です。

カティーサーク マンチュア社

カティーサーク